徳川家霊台(とくがわけれいだい)を建立した3代将軍徳川家光とは!

徳川家霊台(とくがわけれいだい)を建立した3代将軍徳川家光とは!

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徳川家と高野山の関係は古くからあり、江戸幕府が開かれた後も、良好な関係が保たれていたようです。

赤松院に徳川家康、秀忠、家光の位牌がありました。

徳川家との深い関係がわかりますね。

いまでも高野山には徳川の時代を感じることができる名残が所々で感じます。

3代将軍家光により高野山に建立された霊廟をこの記事で紹介しています。

おはようございます。

私は仏教の大学で学び、今は仏教と書道を楽しく学んでいます。

スピリチュアルなことが好きな、聖佳と申します。

この記事で、家光がお父さんお爺ちゃんを慕っている理由がわかり、これほどにも絢爛豪華な霊台を建造した訳が解明できると思います。

私たちが、平和に暮らせているのも、この3人のおかげかもしれませんね。

感謝!感謝!ですね。

■前回の記事はこちらから

高野山教報より(2018年のカレンダー)とお知らせ

徳川家霊台、絢爛豪華な家康公と2代将軍秀忠公の霊廟

江戸時代の代表的な霊廟建築で重要文化財に指定されています。

金剛峯寺北方の五之室谷(ごのむろだに)にある徳川家霊台は、江戸時代に3代将軍・徳川家光が祖父の家康・父の秀忠を祀るために造営した絢爛豪華な霊廟です。

はじめは、徳川家の菩提寺・宿坊である大徳院によって管理されていましたが大徳院は現在は(蓮華院)と改名されています。

現在は、金剛峯寺の所有になっています。

家光の祖父、初代征夷大将軍徳川家康とは?

波乱にとんだ人生を送り、最後に勝利を勝ち取ったのが家康。

戦国時代に終止符を打って、その後250年を超える泰平の世を作りあげた立派な人です。

家康は松平家に1542年に生まれましたが、当時の松平家は東に今川義元、西には織田信秀という勢力に挟まれていて、いつ滅ぼされてもおかしくない状態でした。

6歳の時から竹千代(家康)は長く人質として暮らしていました。

家光の父親、徳川秀忠は3男なのになぜ2代将軍になれたのか?

まず、長男の信康とその母が、当時信長と家康の敵であった武田側と内通しているとのことを信長に密告がありました。

それを知った信長は、家康に2人の処刑を命じました。

信長の命令とあれば従わなくてはならず、切腹を命じました。

それで長男は切腹により亡くなりました。

一方、不仲説もあり自分の息子を殺害したという説もありますが・・・

結果的には、父親が長男を殺害したということです。

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今の時代であったら、お父さんのほうが処罰されて刑務所に入らないといけないのね。

次に、次男は奥女中の子で、もともと父親に嫌われていたそうです

関ケ原の戦いが終わり家康から67万石を与えられ、時期将軍にという声もあったようですが、7年後に35歳で亡くなりました。

そのため、3男秀忠が2代将軍になれたということです。

大名家を統制するための武家諸法度の法律を発布したり、朝廷や公家を統制する禁中並公家諸法度を制定して鎖国政策を始めたのが秀忠で自分のこども(家光)の時に鎖国が完成しました。

3代将軍家光とは?

両親は、弟の国松を溺愛していて3代将軍の跡継ぎ争いがありましたが、乳母の春日局と祖父の家康の力で跡継ぎ争いは決着がつきました。

祖父の家康が家光の最大なるピンチを救ってくれたのです。

凄~い!流石おじいちゃん!

大名たちにも「私は生まれながらの将軍である。祖父や父の仲間だった大名たちもすべて家来として扱う」と宣言しました。

そのひとつが、父親が土台を作った武家諸法度にさらに、参勤交代という項目を増やしました。

キリスト教の禁止、貿易はオランダと中国だけ、そして鎖国政策を完成させました。

よく3代目が会社をつぶしたり倒産させたりするという話がありますね。

大丈夫でしたね!

家光には力強い見方がいたのです。もちろん、家康おじいちゃんです。

家光が悩んでいると、亡くなった家康が夢に現れて、助けてくれたといわれています。

亡くなっても、大切な孫のことが心配だったのでしょうか。

家光は家臣にも恵まれ、江戸幕府をさらに強化することができたそうです。

3代目のダメダメ伝説にならなくてよかったですね(^_^)

祖父と父親に感謝をこめて、高野山に徳川家霊台を建立!

秀忠の死の翌年、1633年に霊廟の造営が始まりました、完成したのは10年後でした。

10年も費やしただけあり、日光東照宮の縮小版と思わせるぐらい豪華絢爛です。

二つ並んで建てられた霊屋は向かって右側が家康の霊屋、左側が秀忠の霊屋です。

どちらも役6メートル四方の一重宝形造りで「瓦棒銅板葺」屋根になっています。

内部は漆、金箔、彩色の壁画などの装飾がほどこされているようです。

霊屋の内部は通常非公開ですが、期間限定で特別公開されますので、必見ですね。

その後、諸大名も高野山の子院と師壇関係を結ぶようになりました。

そして高野山に参詣する場合、藩主である大名と壇縁関係にある宿坊に泊まるというのが慣例となっていきました。

高野山の宿坊には、すごい大名たちが泊まっていたのですね。

高野山の宿坊に泊まって、その時代を感じたいですね。

まとめ

いつの時代も、親が子を思う気持ち、子が親を慕う気持ちはいいものですね。

親孝行をすると、いいことがあるかも(^^)/

徳川家霊台で御朱印いただきました。かなり立派な字です。

■次回の記事はこちらから

宗教都市高野山への道のりは?慈尊院から極楽浄土に行ける道とは

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