高野山の聖地、壇上伽藍を訪ねて(⑯愛染堂⑰不動堂⑱大会堂

高野山の聖地、壇上伽藍を訪ねて(⑯愛染堂⑰不動堂⑱大会堂⑲三昧堂)

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高野山の壇上伽藍には数々のエピソード!

この記事ではお堂の解説と伝承話を紹介しています。

おはようございます(^_^)

私は、仏教の大学で学び、今は仏教と書道を楽しく学んでいます。

聖佳と申します。

この記事では、弘法大師空海がどれほどの人や神と繋がりがあるのか、知ることができます。

■前回の記事

高野山の聖地、壇上伽藍を訪ねて(⑬根本大塔⑭対面桜⑮大塔の鐘)

⑯愛染堂(あいぜんどう)

建武元年(1334年)、後醍醐天皇の命により、玉体安穏(帝の身体健全)を祈るために建立されました。

本尊は後醍醐天皇の御等身の愛染明王です。

愛染明王は、人間を悩ませる愛欲や煩悩を悟りを開くための力や生きるパワーに昇華するご利益があるとして古くから信仰されています。

生きていく力を頂けるパワースポットですね。

直江兼続が熱烈な信者で、兜に愛染明王の「愛」の飾りを付けています。

直江兼続はどんな人?

直江兼続は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、上杉氏の家老です。

直江兼続は、元々は長尾政景の家臣の樋口兼豊の長男で樋口氏でした。

直江姓になるのは、上杉の重臣直江氏が暗殺されて跡継ぎもいなかった事から兼続が残った未亡人と結婚し直江兼続になったのですね。

あの石田三成と同い年です。

「愛」という字を前立にあしらった兜をかぶっていたのが、直江兼続!

日本の歴史が好きになってきますね。

⑰不動堂(ふどうどう)は国宝です。

建久8年(1197年)、鳥羽法皇の皇女八條女院内親王によって建立されました。

現在のお堂は14世紀前半ごろの建物で、火事が多かった高野山において奇跡的に現存している古い建物で、仏堂でありながら当時の住宅様式をよく伝えていることから国宝に指定されています。

御堂の四隅はすべて形が異なるという特徴があります。

元来は別の目的建てられたお堂だったのでしょうが「不動堂」と呼ばれるようになったのは後に不動明王と八大童子がおまつりされるようになったからだそうです・・・

この八大童子像は運慶の手になる名作で、数多くある高野山の文化財の中でも至宝中の至宝として、霊宝館に展示されています。

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霊宝館は600円でしたが、見ごたえがありました。

時間があればゆっくり見たいところでした。

⑱大会堂(だいえどう)

元々は鳥羽法皇の皇女の五辻斎院内親王が父を追福するために建てた大会堂。

五辻斎院内親王の命で西行法師によって建立された「蓮華乗院」という名のお堂でした。

後世になり、高野山の大きな法要(大会)の集会所(しゅえしょ)として使われようになってから「大会堂」と呼ばれるようになったそうです。

愛染堂と大会堂は嘉永元年(1848年)に再建されたお堂です

⑲三昧堂(さんまいどう)

金剛峯寺第六世座主(ざす)(住職)の済高大僧都(さいこうだいそうず)(870年~942年)が延長7年(929年)に建立されました。

もともと総持院(そうじいん)境内に存在していました。

大会堂の隣の小さなお堂ですが、第8世高野山座主の済高僧正がこのお堂で常に「理趣三昧」という修法を修していたことから、三昧堂と呼ばれています。

現在の建物は文化13年(1816年)の再建です。

また別名を「西行堂」といいますが、先の大会堂建立に当たり、高野山に上った西行法師が此処に住したことに由来するそうです。

左側の木は桜の木ですが西行法師が袈裟を掛けたことから「袈裟掛桜」或いは「西行桜」と呼ばれています。

立札にこう書かれています。

歌人としても有名な西行法師は、1149年32歳頃から約30年間、高野山に草庵を結びました。

高野山では大会堂と三昧堂の造営、移築に総指揮として尽力されました。

三昧堂移築に際し、西行法師によりお手植えされたのが西行桜の由来です 。

立札の説明でした。

 西行は、出家した僧侶ですが、伊勢神宮参拝されて静寂さと
目に見えない神秘を感じて涙されたそうです。
伊勢神宮は地元なので普段の日にも時々行きますが、内宮の
橋を渡ると別世界になりますね。
弘法大師空海に高野山を授けた女神、丹生都比売大神で伊勢神宮の天照
 大神の妹になります。
弘法大師空海と伊勢神宮も繋がりがあるということですね。
日本を代表する人や神が、しっかり手を取り合っているようですね。
なんだか、ほっこりします。
■次回の記事はこちら
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