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根本大塔とともに空海が構想したもう一つの多宝塔
おはようございます。
私は仏教の大学で学び、今は仏教と書道を楽しく学んでいます。
スピリチュアルなことが好きな、聖佳と申します。
この壇上伽藍には、興味深いエピソードもあります。
この記事で、紹介しています。
壇上伽藍に根本大塔を中心として東西に配置されている多宝塔が東塔と西塔になります。
高野山の中核をなす堂塔が集まり仏像や仏画、建築物を通して密教を表現しています。
壇上伽藍はたくさんの塔があります。
見落としされないように順を追って詳しく紹介したいと思います 。
高野山を訪ねる時の参考になれば幸いです。
■前回の記事はこちらから
高野山の聖地、壇上伽藍をたずねて(③登天 の松と杓子の芝④六角経蔵⑤ 御社 ⑥山王院 )
⑦静寂の中にたたずむ白木造りの趣深い(西塔 )
深い緑のその奥にひっそりと建っているのが西塔です。
私は、なぜかここだけは寂しい感じがしました。
886年に建立されました。
根本大塔に次いで大きな西塔は弟子の真然大徳(しんぜんだいとく )が創建したと伝えられていますが、その原案は空海によるものです。
光孝天皇の御願で「御図記」(ごずき)に基づいて886年に建てられたといいます。
「御図記」とは空海によって記された伽藍建立計画案です。
弘法大師空海は、大塔と西塔を、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として根本大塔と二基一対として真言密教を具体的に表現しようとして、建立する計画でした。
しかし、経済的な理由から同時期には着工できませんでした。
西塔では、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が祀られています。
現在の塔は1834年にに再建されたもので、5代目になります。
高さは27.27メートルです。
東塔や根本大塔と違って朱色に塗られていない西塔は地味な印象を与えますが、年月を経た白木が落ち着いたたたずまいをみせています。
西塔の本尊である金剛大日如来像は高野山に現存する最古の仏像であり、日本最古の大日如来像をでもあって 、西塔建立時のものと考えられています。
西塔も高野山の多くの塔と同じように 、火災に遭遇していますが、金剛大日如来像はその度に奇跡的に救い出されてきました。
不思議ですね。まだまだ、大きな役目があるのでしょうね。
この大日如来像は、ほぼ一本の檜から掘り出されているのが特徴です。
木芯から一番離れた膝あたりまでの年輪は400もあります。
しっかりした木材を使われています。
本尊の実物は高野山霊宝館にて拝観できます。
霊宝館は忘れず拝観してきてくださいね。
時がたつのを忘れるほど穏やかな眼差しで包み込まれて、心が洗われる思いでした。
とても異国的な美しさの仏像です。
高野山霊宝館を訪れて本物をみてくださいね。
素敵な仏様が待っています。
この金剛界の大日如来を囲むのは、胎蔵界の四仏です。
根本大塔と同じく西塔においても、胎蔵界と金剛界を分かちがたいものとしてとらえる空海の思想を見ることができます。
西塔の横に中門下層柱として使った切り株が残っています。
⑧祈雨(きう)の本尊、孔雀明王を祀る建物(孔雀堂))
1199年、この年は近畿地方を中心として雨が降らずに作物は育たず人々は貧困におちいりました。
後鳥羽上皇の御願(ごがん)を受けた、東寺長者の延杲(えんごう)僧正は神泉苑(しんせんえん)にて祈雨の修法を行い僧正が見事に祈雨の修法成就させました。
法皇や人々は歓喜に沸き立ち、直ちに延杲の功績を称えるため、翌年の1200年、ここ壇上伽藍に孔雀堂(くじゃくどう)建立の発願を行い、造営される事になりました。
しかし1926年に壇上伽藍の境内の金堂において原因不明の出火が発生し、その延焼によってこの孔雀堂も焼失してしまいました。
その後、孔雀堂の建物は1983年に「弘法大師・空海 入定1150年御遠忌事業」の一環で再建されました。
本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。
孔雀堂の名前の由来は?
孔雀堂と言う堂舎の名前の由来は「孔雀明王」(くじやくみょうおう)に由来します。
孔雀明王とは 孔雀に乗っているのですぐにわかります。
古来からインドで孔雀とは「吉兆」を運ぶ鳥として霊鳥として扱われてきました。
孔雀はインドの国鳥にも指定され大切に保護されています。
鎌倉時代の日本では中国から「孔雀信仰」と言うものが伝来していました。
この信仰では孔雀は吉鳥であり、幸運をもたらす鳥として崇められていました。
孔雀が毒虫や毒蛇を食べることから転じて、人々を 苦痛や災害から守ると信じられました。
孔雀は実際に神経性の猛毒にも耐性があり、サソリや毒蜘蛛なども捕食していとも容易に食べてしまいます。
そのような怖そうな孔雀明王ですが、他の明王とは違い穏やかな顔をしています。
明王像は、空海が唐より日本へ伝えた密教特有の仏像です。
他の明王像は剣や弓など武器をもち怒った表情の恐ろしい姿であらわされています。
孔雀明王の4つの手それぞれに持っている物はなに?
◎「蓮華(れんげ)」
花の開き加減により悟りの段階を表しています。
◎「倶縁果」(くえんか)
レモンで、煩悩を消除させる効果がある果実です。
◎「孔雀の尾羽根」
災難を打ち払い、招福や幸福を意味しているとされています。
◎「吉祥果」
ザクロで古来から魔除けの果実と称されていました。
うつくしい孔雀が、毒蛇、サソリ、毒蜘蛛、を食べてしまうとは少し不気味になってしまいましたが、このような毒ある生き物を食べてくれるとは、ありがたいことですね。
孔雀さんに感謝です。
動物園に行った時は、孔雀さんの羽根が落ちていたら、頂いてこようかと思っています(^_^)
⑨逆差しの藤(さかさしのふじ)
御影堂の裏にまわると、逆差しの藤(さかさしのふじ)と呼ばれる藤があります。
高野山再興の功労者として知られる平安時代の高僧祈親(きしん)上人のゆかりの藤です。
高僧祈親上人は、非常に『法華経』を信仰していたため、持経上人とも呼ばれました。
祈親上人は1016年に観音像のお告げを受けて高野山に登りました。
その頃の高野山は東寺との対立や火災によって荒廃していました。
見るも無惨な世界が広がっていました。
この有様を悲しんだ祈親上人は高野山の再興を誓い、「願掛け」として藤を地面へ逆さに植えたということです。
そして独自に寒さを防ぐ方法を編み出すなどして山内に常住しました。
不思議なことに、この藤はしばらくして芽生えはじめ、それとともに高野山の再興の兆しが見え始めたということです。
そして、祈親上人の入山から7年後の治安3年(1023)、関白・藤原道長が高野山に参詣しました。
これがきっかけで高野山は藤原氏の保護を受けるようになり、権力者の高野詣でが盛んになります。
そして、藤の成長とともに伽藍の復興も進み、高野山は最盛期を迎えました。
祈親上人は高野山再興の功労者であり、弘法大師の生まれ変わりとして多くの人々から慕われました。
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高野山の聖地、檀上伽藍を訪ねて(⑩准胝堂 ⑪御影堂 ⑫三鈷の松
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高野山の聖地、壇上伽藍をたずねて(③登天 の松と杓子の芝④六角経蔵⑤ 御社 ⑥山王院 )
今日の一言
ひとつの顔は神が与えてくださった。
もうひとつの顔は自分で造るのだ。
シェイクスピア
今日も、あなたにとって良い一日でありますように(^_^)
