空海は故郷の満濃池の修繕工事とは?
法力で奇跡とは?
この記事で分かりやすく解説しています。
おはようございます。
私は仏教の大学を卒業して、仏教と書道を学んでいます。
聖佳と申します。
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満濃池の洪水防止の補修工事!(821年)
821年には故郷の多度津に溜池の修繕工事に向かいました。
この池の堤防は、たびたび洪水にみまわれていました。
空海の才能は、仏教だけではなく土木工事にも力を発揮します。
この補修工事も、短期間で完成させたということです。
空海は農民たちを集めて、満濃池のことを説明しました。
大雨が降れば大洪水になり、日照りが続けば田畑の作物が育たなくなるということを。
このことを一番知っているのは、農民たちです。
大雨が降ると堤防が決壊して村々を濁流が襲っていました。
818年には、大決壊を起こし村々を泥海にしたのでした。
空海は池のそばに護摩壇をつくり、秘宝を唱え神の助けと工事の安全を祈った。
農民たちは大勢で力を合わせ、次に来る大雨に備えて大急ぎで工事をすすめました。
その甲斐あって、堤防は大雨に間に合いびくともしませんでした。
その後千数百年、満濃池は決壊したことがないといわれています。
空海は、ここにも名を残しました。
空海、東寺を嵯峨天皇より賜る【823年(50歳)】
823年、嵯峨天皇より京都の東寺が与えられました。
寺を建立しながら、社会的にも文化的にも最も活躍した時期でした。
この時に空海は密教哲学を仕上げる段階にきていました。
いつも援助してくれていた、嵯峨天皇は823年弟の大伴皇子に位を譲りました。
即位して淳和天皇(じゅんなてんのう)となりました。
淳和天皇の父は桓武天皇です。
嵯峨天皇とは友のようでありましたが、淳和天皇は高僧を尊敬していました。
空海にも、一目置いていました。
それでも空海は、政治に口出しするようなことは一切しませんでした。
多忙な空海でしたが、厳しい山林修行は怠らなかったといいます。
高野大使行状図画の中に描かれている「役行者」(えんのぎょうじゃ)に修験道の祖として知られる役行者に導かれ,大峰山に上るところが描かれています。
空海は、山林修行に重きをおく役行者的な面と、人々の生活に入り、常に庶民の立場で祈るなど行基(ぎょうき)的な面を兼ね備えていたため、後世、人々にあつく信仰されました。
行基(ぎょうき)といえば、東大寺の大仏を造った人物ですね。
行基は慈善事業も行っていて奈良時代重い税に苦しんでいた民から崇拝されていた人物です。
役行者とは超自然的能力を習得し呪術などの宗教活動を行う山伏の宗教です。
修験道の開祖でもあります。
空海は、東寺に唐から持ち帰ったすべての経典、法具、仏像、仏具、曼荼羅を移しました。
その中には師の恵果から贈られたものもありました。
東寺の講堂には、密教の規則にのっとり、大日如来を中心として、菩薩、明王などの諸尊を安置し、曼荼羅の世界を創り出しています。
空海は講堂を創設するとともに、密教の世界をだれの目にもはっきりわかるよう仏像で曼荼羅の世界を表現し、教王護国寺と称しました。
これは高野大師行状図画の中の「密教の道場」の絵に描かれています。
<三鈷杵の伝説>
法具の中の「三鈷杵」についての話ですが、空海が唐から帰るとき 、修行するのに最適な場所を見つけるために 三鈷杵を日本に向かって投げて占いました。
それが高野山の松の木に引っかかっていて修行の場所を、ここに決めたという伝説があります。
その松は、根本大塔の近くにあり、朱塗りの玉垣で囲われ神聖な場所であることがすぐわかります。
また、普通の松は2本の葉が出ますが、「三鈷の松 」の中には3本の葉のものもあり、それを見つけると幸運になるという話もあります。
あなたも、高野山に行かれたら探してください。
見つかるといいですね。
今度、高野山に行く時は、少し時間をかけて3本の葉を見つけたいと思います。
一言
人にほめられる人より、
人をほめられる人が賢者 !
あなたにとって、いい日でありますように(^_^)
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