空海と最澄の仲たがいのきっかけは?
顕教と密教の違い高雄山寺で組織づくりこの記事で分かりやすく解説しています。
おはようございます。
私は仏教の大学を卒業して、仏教と書道を学んでいます。
聖佳と申します。
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最澄は、弟子を残し比叡山に帰る
最澄は空海に弟子入りしたものの、自分が建てた比叡山寺を長く留守にするわけにもいかず、弟子の泰範(たいはん)、円澄(えんちょう)を残し帰りました。
比叡山寺は、滋賀県大津市にあり、現在では「延暦寺」となっています 。
最澄と空海の共通点として挙げられるのは密教を根幹にしていること。
しかしその内容は相当異なっていいます。
空海は密教以外のものは顕教(けんきょう)と捉えています。
密教のみを指示しています。
顕教は言葉の理解を通して、真理を得ようとする仏教の立場。
密教は言葉にはできない秘密の教えを体験的に学ぼうとする仏教の立場身体を酷使する修行を重視する、と空海が言っています。
一方、最澄は「法華経」を尊重する天台教学と密教が一致するという考え方です。
しかし、最澄の密教は極めて不十分なものでありました。
空海が唐から持ち帰った 、経典類、曼荼羅、法具が数多く集められていた事に最澄は驚愕していました。
これは空海に教えを請うしかないと悟り、弟子入りをお願いしたわけです。
しかし、比叡山に帰らなければならない事情があり、一緒に弟子入りした自分の弟子たちに、しっかり学ぶように伝えて、帰ったということです。
その後、弟子たちを通して、空海から色々なものを貸し出してもらっていました 。
<空海は、最澄からの経典借用願いを断る >
最澄は高雄山寺に残っている泰範に、空海から理趣釈教 (りしゅしゃくきょう)を借りるように頼みました。
自分から出向いて行かず弟子ばかりを利用するとは少しずるいですね。
※ 「理趣釈教 」とは密教の重要なお経の解説のしてあるものです。
しかし、空海は断りました。
なぜかというと、密教は修行をして体や心で感じとらなければならない。
経典を読むだけでは、何も得られない、修行を積まなければダメだと断りの手紙を書きました。
何年かして、最澄は泰範に比叡山に戻るように伝えました。
しかし、泰範は空海のもとで修業をしたいと伝えました。
この時、最澄は心痛の思いで泰範に何度も手紙を書いています。
それは「劣を捨てて勝を取るは世上の常理ならん。 然れども、法華一乗と真言一乗と何ぞ優劣あらんや。 」
最澄は 、天台宗も真言宗も優劣はないと説得をした。
空海は、これに対して泰範に代わって筆を執った。
天台宗を含む顕教は浅い教えであり、真言宗(密教)方が実に深い教えであると。
優劣を明確に断言した。
さらに最澄は、「遺言」として総別当を泰範に伝法の座主を円澄に任ずることを認めました。
これだけ重要な立場に任命されても、泰範は破門覚悟で!
下山して空海に師事して、戻ることはなかった。
最澄と空海、この二人の戦いは 恋人をめぐる熾烈な戦いのように感じますね。
三角関係の末、空海の勝利というところです。
何とも後味が悪いですが、仕方ないことなのでしょうね。
泰範は、空海にとっても、最澄にとっても、重要な愛弟子です。
空海と最澄はこの事件をきっかけに、気まずくなってしまったということです。
後に泰範は「空海の十大弟子」の一人になります。
<高雄山寺で、組織づくりをする>
812年、空海は高雄山寺に三網(さんごう)の役職を置いて組織づくりを始めました。
三綱(さんごう)とは
上座(じょうざ)寺院を管理・運営し寺衆を統率する役職
寺主(じしゅ)堂塔を管理する事務や経営の役職
維那(いな)日常の諸事を指導する役割
インドや中国ではすでに設けられていた制度でした 。
日本では奈良時代から置かれるようになりました。
比叡山の学徒や空海の身内からも何人か入壇しています。
空海の身内としては、空海の実の弟、真雅(しんが)、甥の智泉(ちせん)甥の真然(しんぜん)がいます。
空海は、貴族の人々とも親密な交流がありました。
貴族の藤原冬嗣は、唐から持ち帰ったものを、貸し出してほしいと申し出ました。
空海は快く貸し出しました。
藤原冬嗣は、空海に信頼をおき、一族を発展させるためにはどうすれば良いのか相談しました。
空海は藤原氏の興福寺に八角形の建物を建てることを伝えました。
冬嗣は早速、御堂を立てて南円堂ができました。
これ以降、藤原氏は発展していったということです。
今日の一言
幸福は、好奇心から生まれます。
あなたにとって、良い一日でありますように(^_^)
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