帰国後、入京できない空海を待っていたものとは !

唐から帰国。しかし、入京の許し認められず【806年(33歳)】

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なぜ、高野山に金剛峯寺を建てたのか?

空海は、なぜ入京できなかったのか?

この記事で分かりやすく解説しています。

こんにちは。
私は仏教の大学を卒業して、仏教と書道を学んでいます。

聖佳と申します。

前回の記事を読みたい方はこちらをどうぞ。
■前回の記事:密教の教えは手に入れたが、師との辛い別れ!

空海、一刻も早く日本へ帰り密教を!

806年8月、明州の港より九州を目指しました。

帰国につく直前の港で 、空海は懐から三鈷杵(さんこしょ)を取り出すや、密教を伝えるのにふさわしい場所があれば示したまえと祈願し、日本に向って投げたという。

のちにその三鈷杵は、高野山で見つかり、空海はここだと決め金剛峯寺が建立されたことなったと伝わっています。

このエピソードは、高野大師行状図画の中の「飛行三鈷杵」の絵に描かれています。

806年10月、空海を乗せた船は、やっと太宰府(福岡県)に着きました。

※太宰府とは現在の福岡県太宰府市にあった役所のことです。

しかし、空海は都に行くことは禁止されて、大宰府で待つようにいわれました。

空海は持ち帰った経典などと一緒に「御請来目録」(ごしょうらいもくろく)という報告書を書き、経典と仏具や書物を高階遠成(たかしなのとおなり)にお願いして朝廷(国)に提出してもらいました。

この「御請来目録」の中に早期帰国にいたった理由も添えています。

このことは高野大師行状図画の中の「帰国]に描かれています。

<朝廷(国)は、空海の入京を認めず>

空海は太宰府の観世音寺にとどめられました 。

ここで2年間いる事になります。

早期帰国が問題になったのでしょうか?

空海よりも先に帰国した最澄は、高尾山寺にて天台宗を開いていました。

高尾山寺は京都府京都市にあるお寺です。

今では神護寺(じんごじ)と呼ばれています。

空海にとって、また不運な出来事が起こってしまいました。

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807年11月叔父の阿刀大足(あとのおおたり)が仕えていた伊予親王が謀反の疑いで、捉えれてしまいました。

そして、自害に追い込まれてしまうのです。

これは、藤原氏の陰謀だったといわれています。

昔の政治は命がけですね

その年、空海は和泉の槇尾山寺(まきのおさんじ)に移されてしまいます。

和泉の槇尾山寺は大阪府和泉市にあるお寺ですが、現在は施福治(せふくじ)と呼ばれています。

この時の空海の気持ちは不安ばかりが募ったのではないかと思われます。

朝廷内では空海の滞在期間の不足の罪をどうするのか結論がなかなか出せなかった。

最澄がすでに天台宗と密教を伝えていたので、空海との関係をどうするか、その事についても結論が出せなかったという事もあるようです。

そして、政局が不安定な状態だったので空海のことは後回しにされた

そんな時、不運続きの空海に希望の光が差し込んできました!

809年4月、平城天皇が病気のため退位し、弟の嵯峨天皇が即位しました。

<嵯峨天皇と最澄により、空海の運命が変わる>

また空海の最強パワー が発揮されるのでしょうか?

楽しみになってきましたね。

嵯峨天皇は桓武天皇の第2皇子です。

空海のよき理解者になった人物です。

空海は嵯峨天皇の御所に呼ばれ、屏風に書をかきました。

三筆の一人といわれる嵯峨天皇も驚くぐらいの腕前でした。

809年7月、やっと京都に移るよう命ぜられ高雄山寺(たかおさんじ)に住むようになりました。

そうしてもう1つ、空海が入京出来るように力を尽くしたのが永遠のライバル最澄になります。

最澄は「御請来目録」を見て、空海が密教においてはただならぬ存在であることを感じ取りました。

最澄は、空海の密教経典を借用して学んでいました。

空海が入京できたのは、最澄の強い推薦があったため、ともいわれています。

最澄さんなかなかにくいことやりますね~。

空海さんも、いいライバルを持ちましたヽ(^o^)丿

空海さんと最澄さんはこれからも、戦い続けることになります。

仏教の世界での戦い、面白くなってきました。

今日の一言

「成功しよう」とするより、

「夢をかなえよう」とするほうが楽しい!

あなたにとって、今日も一日良い日でありますように(^_^)

次の記事では【薬子の陰謀で混乱とは?】について、分かりやすく解説していきます。

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都の混乱と鎮護国家を目指して平安京へ

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密教の教えは手に入れたが、師との辛い別れ!

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