幼少期の空海の名は真魚、「高野大師行図画」に空海誕生のシーン

空海の誕生、幼名は真魚(まお)【774年~】

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空海の誕生が誕生したのは774年6月15日。

幼少の頃より、仏に縁があった空海は、幼少時代の幼名は真魚(まお)と呼ばれていました。

高野大師行状図画で語られる、空海の幼少時のエピソードを、この記事で紹介します。

こんにちは。

私は仏教の大学を卒業して、仏教と書道を学んでいます。

聖佳と申します。

この記事では、空海の生涯を描いた「高野大師行状図画」を読み解き、空海の幼年期の出来事を分かりやすく、解説しています。

この記事を読む事で、空海はどんな幼年期を過ごし、どんな子どもだったのかを、知る事が出来ます。

前回の記事はこちらから

■前回の記事:弘法大師空海さまとの不思議な数々のご縁

小さい頃から仏様に縁があった「空海」

<空海の幼いころの名は、真魚(まお)774年生まれ>

◎空海は、774年6月15日生まれといわれています。

この日は、不空(ふくう)が入滅した日です。

不空は素晴らしい密教僧でありました。

空海の師である恵果(けいか)の師匠です。

空海の生涯は、不空によく似ていました。

そのため不空の 生まれ変わりといわれました。

幼いころから他の子どもたちとはタイプが違っていたようです。

空海の頭の良さは、母方の家系からではないかと思われています。

この家系は仏教の家系といってもいいほどでした。

空海の弟の真雅(しんが)、甥の智泉(ちせん)、甥の真然(しんぜん)のほか、姪の子でる円珍(えんちん)これだけでも仏教家系ですね。

空海にとっては、この中でも甥の智泉が一番大切であったように思われます。

なぜならば、智泉が亡くなった時の嘆き方は悲惨な状態でした。

<「高野大師行状図画」空海の62年間を50段の絵で>

高野大師行状図画とはどんなものなのでしょうか?

弘法大師空海の、62年間の生涯を50段の絵図で綴ってます。

それぞれの宗派の僧の生涯を、伝承や伝説を交えながら絵画と文章で紹介したものを絵伝と呼びます。

空海に関する絵伝は、およそ1250年頃に作られたと考えられています。

◎「高野大師行図画」は空海誕生のシーンから物語が始まります。

そこには、空海(真魚)の母が「インドの聖人が懐に入る夢を見て懐妊され、12ヶ月後に合掌をしながら空海(真魚)さまがお生まれになった」という、古くから言い伝えられている事にもとづいて場面が描かれています。

僧になるべくして生まれた、空海の生涯を予見するシーンです。

そして、真魚という名前も偶然なのでしょうか?

この後、空海には魚をめぐる伝承が数々あります。

山形県の泉田川を遡上する鮭を、地元のものが旅の老僧に投げつけてよこした。

僧が呪文を唱えたところ、投げられた鮭は飛び跳ねて川に入り泳いで行ったのですが、翌年らはこの川には、鮭が一匹も上がってこなくなってしまったというのです。このお坊さんは弘大師空海であったということです。

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魚にまつわる話をもう一つ、美濃の東北にある加子母村(かしもむら)では川に毒を流してる漁がおこなわれていました。

あるとき旅の僧が毒を流すのはやめるように訴えました。若者が聞き入れてくれたので、その時僧は団子を頂いて帰ったのですが、次の日、やはり若者たちは毒を流して漁をしました。

その結果、たくさんの魚が取れましたが、その中にことのほか大きなイワナがいたので料理するのにお腹を切ると、僧にあげた団子が出てきたというのです。

そこで、イワナが僧に化けたことを知ったということです。

空海伝の一つには幼少時代の空海の様子が記されています。

◎「夢の中の仏」の絵に

真魚は常々、八葉の蓮華に座り、仏たちと対話する夢を見たといっています。

◎「遊びと仏」の絵には

真魚が、5歳~6歳の頃の、空海の遊びが記録されています。

真魚が粘土遊びをすると、ほとんど仏様になり、それを堂をつくりお参りをしていたとのことです。

この頃、他の子供たちがと同じ遊びには興味を示さず、小さな小屋にお祭りして礼拝していたといわれています。

◎「真魚と四天王」の絵には

都から来た役人が仏法の守護神である四天王に囲まれた子どもを見てびっくりして、役人から降りて合掌している場面が描かれています。

これは、この役人だけにしか見えなかったことですが(従者にはみえていない)、真魚のには四天王が取り囲み守っているので、きっとこの子は、この先特別な人物になると確信したそうです。

役人は両親に、この子は立派な人になると言い残して帰ったそうです。

四天王とは、天に住む仏教における、4人の守護神のことです。

  • 持国天(じこくてん)は東方を護る守護神で仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置され、持ち物は刀が多く唐代の武将風の姿であらわされています。
  • 増長天(ぞうちょうてん)は南方を護る守護神で仏堂内部では左手前に安置され持ち刀、剣、戟(ほこ)が多く灯台の武装風の姿であらわされています。
  • 広目天(こうもくてん)は西方を守る守護神で仏堂内部では本尊のむかって左後方に安置され持ち物は古くは筆や巻き物を持ち唐代の武装風の姿であらわされています。
  • 多聞天(たもんてん)は北方を守る守護神で 四天王がそろっているときは多聞天と言い単独の時は毘沙門天といい七福神の一人です。左手に宝搭、右手に金剛棒を持ち唐代の風の姿であらわされています。

◎「捨身」の絵には

これは、空海が幼少期の7歳の時、高くそびえる捨身ヶ嶽の断崖に登り、「もしも私が仏法により、多くの人々を救う道に進むべきならば、仏よ、救いたまえ 」と念じて山から飛び降りたら、天女が受け止めたと伝えられています。

7歳にして,いくべき進路と求道と決意をかためられたのが、この捨身誓願(しゃしんせいん)であり、それは自ら求められた第一線の 試練でありました。

小さな真魚の決心、希望に満ちて大きな仏門の世界に入る出発点でありました。

空海が生まれ育った讃岐国多度郡は、 山に囲まれた土地です。

その1つの 我拝師山(がはいしさん)は幼き日の空海が、命を懸けて捨身誓願 をした山で捨身岳 と呼ばれています。

ここまでが、弘法大師(空海)の幼少期です。

次の記事では【空海の少年期(786年~)】について、分かりやすく解説していきます。

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空海の少年時代の生活ぶりとは?

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弘法大師空海さまとの不思議な数々のご縁

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