弘法大師(空海)の生涯の概要について

弘法大師(空海)とはどんな人物?

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空海ってどんな人?

空海という名は知っているけれど、何をした人?

良くわからない!

そんな人のためにわかりやすく、解説しています。

おはようございます。
私は仏教の大学を卒業して、仏教と書道を学んでいます。

聖佳と申します。

弘法大師と言えば「空海」

はじめに
「弘法大師(空海) 」 という言葉を知らない人は いないと言っていいくらいですね。

「弘法にも筆のあやまり」などの代表的な言葉があります。

この言葉は書の名人でも書き間違いはするということです。

これとは、逆に「弘法筆を選ばず」ということわざは、スキルが高い人ほど道具にこだわらず、さらに使いこなしてしまうということですね。

ことわざに残るくらいですから凄かったのでしょうね。

弘法というのは、弘法大師を略した言い方と考えてもいいですね。

「大師」というのは朝廷が行いの立派な僧に贈った敬称です。
(最澄)や(日蓮)などもうそうです。

しかし、今では大師といえば空海さんだけを考えてしまいますね。

1200年も前の人であるのに、弘法大師(空海)は人々に親しまれ、今でも人々の心の中で生き続けているのです。

<空海の誕生>

  • 誕生:774年6月15日
  • 出生:香川県善通寺市に生まれました
  • 父:佐伯直田公善通(さえきのあたいたぎみ よしみち))
  • 母:阿古屋玉依御前(あこやたまよりごぜん)

誕生日は「不空」が亡くなった日。6月15日不空は密教経典をスリランカから唐へ伝えたお坊さまです。

そのため、不空の生まれ変わり、といわれています。

また「誕生」という絵巻きがあり、雲に乗り合掌しながら飛来する僧侶が、空海の母のおなかに光を照らしている様子が描かれています。

母は「インドの聖人が懐に入る夢を見て懐妊し、合唱をしながらお生まれになった 」 というのが空海の誕生にまつわるエピソードです。

僧になるべくして生まれたのでしょうか 。

<空海の幼名は真魚>

空海は三男で、幼名は真魚 (まお)でしたが、二人の兄が早くに亡くなってしまったので、跡取りとして一族の期待を集めて、大学に進みました。

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当時、桓武天皇が、都を奈良の平城京から京都府の長岡京に遷都したばかりでした。

この頃は、ひどい水害があった時でした。

都の人たちは都づくりと、災害のために疲れはてていました。

空海は人々の哀れな姿を見て 、自分の学んでいた学問と大学の在り方に疑問を持つようになりました。

人々を助けるものは仏教だと信じるようになりました。

空海は大学を辞め、儒教、道教、仏教と順番に関心を持ちました。

いろいろ考えたあげく、仏教を選びました。

そして、一心に仏教を勉強しました。

<空海、唐に渡る>

804年、31歳のとき空海は密教 を学ぶために、遣唐使船に乗り込み、唐(今の中国)へ留学しました。

唐に渡った空海は、長安の青竜寺で恵果(けいか)という偉い僧に出会うことができました。

恵果は空海に密教の教えをすべて伝えてくれました。

<空海、密教を持ち帰る>

806年に空海は密教を学び日本に戻りました。

そして、桓武天皇の子の嵯峨天皇に深く信仰されるようになりました。

空海のもたらした新しい仏教は真言密教として広まりました。

816年に和歌山の高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開いて修行の場とし823年に京都の東寺を密教の道場とした。

空海は単なる宗教家だけではなく、庶民のための綜芸種智院という学校をつくりました。

<多才な空海は「三筆」のうちの1人>

 

それと、漢文や漢詩にも優れて、書道もたくみで、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「三筆」と呼ばれました。

各地をめぐり、多くの潅漑用の池や井戸を掘ったといわれています。

空海の人気の秘密は、このようなところにあるのでしょうね。

あなたにとって、いい一日になりますように(^_^)

次の記事では【弘法大師空海さまとの不思議な数々のご縁!】について、
分かりやすく解説していきます。

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(準備中)

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